わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる。   あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。   わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。   愛は寛容であり、愛は情深い。   主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。   聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものである。   狭い門からはいれ、命にいたる門は狭く、その道は細い。

牧師メッセージ

2009年1月4日日曜礼拝から  2009年01月04日

 
 「ルカ福音書2章41~52節の牧師説教より」=<説教題 少年イエス>

 「ルカ福音書2章41~52節」を見るとき、12歳になったイエスの出来事が書かれています。
 この時代は、12歳は、自立する年齢と言われていました。イエスが自立していく過程の中で、聖書は、12歳のイエスは特別な神童であったことは書いておりません。
 要は並外れた力を持っているとはどこにも書いてないのです。

 福音書とは、良い知らせを伝える目的がありましたから、12歳のイエスが、少しずつ賢くなっていく様子を描きながら、知恵が増し、神と人に愛されていったことを福音として書かれているのです。

 12歳の年齢は、自分で判断する、判断できる年齢であります。
46節に「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」と書かれておりますが、12歳になったイエスが自分の判断で、このような行いを致しました。たぶん初めてのことであったと思われます。また、「真ん中に座って」とありますように、全ての中心に存在してることを象徴しています。

 律法の子イエスは、「話を聞いたり質問したり」しながら知恵を増して行ったのです。エルサレムとナザレの距離は90~100キロ。人の足で3日もあれば行くことができましたから、毎年このような巡礼の旅はあったのだと思います。この旅の中で、12歳になったイエスが独り立ちをしていくのです。イエスの独り立ちは希望なのです。

 私達は、祈り、毎週教会に行っていたとしても、それで十分だということはありません。自分の手の中に神様がお出でになると考えているとこれは大きな間違いとなります。イエスを通して神様に近づくことが唯一の近道であり、自分の祈りだけでは限界が生じます。いつでも心穏やかにイエスを通して神様と対話していくことが大切なことだと思います。

 49節に「~わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを~」と書かれていますが、この父の家というのは全世界を指し示すものなのです。神様は、全世界のもの、公平な平和の砦です。イエスを仲介して、ことしも神様と繋がる信仰生活を送りたいものです。
<牧師説教から一部編集致しました=伝道委員会>

 

 

礼拝のご案内

説教題 牧者と羊

2010年3月14日(日)

(1)時間 10時30分~11時30分

(2)説教題 「牧者と羊」

(3)賛美歌 8・513・旧354・88

  皆様のお出かけをお待ちしております。

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